音楽評論は何を語るべきか
たまには書評も。最近はもっぱらkindleで手に入るものは電子版で購入するようになった。この手の書籍コードがついたら1500円はしそう(そして最初の3ページを読んで後悔する)な内容とボリュームでも、電子版なら300円。この気安さがよい。
で本題。この30年間、音楽評論の中心にいたのは紛れもなく「rockin'on」だろう。かつて『Quick Japan』が28号で「音楽雑誌なんか読むな!」と挑発したのも、『ミュージック・マガジン』が2001年7月号で「音楽と評論」というテーマで真摯に語ったのも、そして『日本ロック雑誌クロニクル』で篠原章が皮肉交じりに描いたのもすべてその向かう先の対象はROだった。そして、ロック評論における悪の権化のように渋谷陽一を(そのビジネス的な成功を認めつつも)あげつらう。
本書で指摘される「ROがもたらした害悪」というものは、大きく2つ。
まず「自意識ロック語り」がもたらす「貧しさ」(95)。こでは前提として「業界構造としてミュージシャンは新譜の告知で雑誌に登場するわけで、一生懸命作ったものを完成させた高揚感にただ単に同調するインタビューになってしまいがち」(110)という切り口の画一化があり、そして「「ロックの不可能性に自覚的だけどあえてやっている俺カッコイイ」という物語とそのバリエーションが支配的に過ぎる」(105)というメディアの姿勢に対して疑義を呈する。
もうひとつは「商業化」。端的にはメディアが「Rock in Japan」というイベントオーガナイズすることによる問題だ。「フェスに関しては、それが音楽批評を劣化させた大きな原因の一つであると、僕は当事者として強く思っています。フェスというものは…環境を整備することがメディアでありメッセージなんですね。フジもサマソニも全てのフェスがそうで、それはそれでいいんだけど、ロックインジャパンは、ロッキング・オンという活字の会社がそれをやったことで、言論の批評性がフェスのメディア性に従属するものになった。雑誌ジャーナリズムがフェス文化に手を出したことの弊害は誰かが言わなかったことですよ」(402-413:柴那典の発言)。
前者はともかく、後者については言いがかりに近い気も。先の指摘でROがアーティストに同調するばかりでジャーナリズムの体をなしていないことを指摘しているのに、ここでは「雑誌ジャーナリズムがフェス文化に手を出した」ことを糾弾するというのはかなり悪質なレトリック。
自意識ロック語りと商業化は、本来矛盾するもので、この相反する要素を何とかして乗り越えようとしているROを貶めるのは相当に不当。外野からいろんな難癖を付けてヤジを飛ばしているだけのような雰囲気に終始するのが悲しい。
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