カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

July 20, 2019

Kindle Unlimited ざんまい

サブスクの電子書籍の読み放題サービスが出てきたおかげで、すっかり雑誌を買わなくなってしまいました。


しっかり読み込みたい仕事絡みの真面目な本はさすがに新宿のブックファーストで買うけど、それ以外の趣味や教養関連はほぼ全てKindle Unlimited。ガリ勉になれないズボラリーマンなので、ジャンルの割合で言うとクルマ、それ以外の趣味(キャンプ/ランニング/ガジェット)、教養、仕事絡み(とくにプロマネやアナリティクスなどの現場仕事系)、それ以外という感じでそれぞれ2割ずつ、を週に10-15冊くらいを流し読む。哲学/経済系や経営関連の教養モノの古典は今さら文庫買って読めるほどの集中力がないので、お手軽な初心者向けマンガですませちゃうので、表面的な知識はいちおう身に付けられる(ような気がする)。


電子書籍は玉石混交の世界なので、一見立派な表紙にだまされて中身スカスカだったりすることもしばしばあるけど、読み放題だし、同じジャンルの他の本はいっぱいあるので許せる。それと横比較できるので、どれだけコンテンツに労力をかけているかと執筆者や編集者のスキルも透けて見えくるから、これはこれで良いかな。


音楽系の雑誌が皆無(というか雑誌自体が潰れているのでソースが乏しい)なのが残念だけど、このほんのちょっとの不満さえ解消されれば、コンテンツ消費が好きな人間としてはこれ以上の世界は望みようがない。このまえのサイゾーの鼎談特集の話(https://www.facebook.com/velvetty/posts/10157175102451250)ではないけど、一部のジャンルだと雑誌の作り手はサブスクで稼ぐための誌面作りも必要だから、作り手は大変だなーとつくづく思う。(他人事っぽい?)

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March 14, 2014

音楽評論は何を語るべきか

Photoたまには書評も。最近はもっぱらkindleで手に入るものは電子版で購入するようになった。この手の書籍コードがついたら1500円はしそう(そして最初の3ページを読んで後悔する)な内容とボリュームでも、電子版なら300円。この気安さがよい。

で本題。この30年間、音楽評論の中心にいたのは紛れもなく「rockin'on」だろう。かつて『Quick Japan』が28号で「音楽雑誌なんか読むな!」と挑発したのも、『ミュージック・マガジン』が2001年7月号で「音楽と評論」というテーマで真摯に語ったのも、そして『日本ロック雑誌クロニクル』で篠原章が皮肉交じりに描いたのもすべてその向かう先の対象はROだった。そして、ロック評論における悪の権化のように渋谷陽一を(そのビジネス的な成功を認めつつも)あげつらう。

本書で指摘される「ROがもたらした害悪」というものは、大きく2つ。

まず「自意識ロック語り」がもたらす「貧しさ」(95)。こでは前提として「業界構造としてミュージシャンは新譜の告知で雑誌に登場するわけで、一生懸命作ったものを完成させた高揚感にただ単に同調するインタビューになってしまいがち」(110)という切り口の画一化があり、そして「「ロックの不可能性に自覚的だけどあえてやっている俺カッコイイ」という物語とそのバリエーションが支配的に過ぎる」(105)というメディアの姿勢に対して疑義を呈する。

もうひとつは「商業化」。端的にはメディアが「Rock in Japan」というイベントオーガナイズすることによる問題だ。「フェスに関しては、それが音楽批評を劣化させた大きな原因の一つであると、僕は当事者として強く思っています。フェスというものは…環境を整備することがメディアでありメッセージなんですね。フジもサマソニも全てのフェスがそうで、それはそれでいいんだけど、ロックインジャパンは、ロッキング・オンという活字の会社がそれをやったことで、言論の批評性がフェスのメディア性に従属するものになった。雑誌ジャーナリズムがフェス文化に手を出したことの弊害は誰かが言わなかったことですよ」(402-413:柴那典の発言)。

前者はともかく、後者については言いがかりに近い気も。先の指摘でROがアーティストに同調するばかりでジャーナリズムの体をなしていないことを指摘しているのに、ここでは「雑誌ジャーナリズムがフェス文化に手を出した」ことを糾弾するというのはかなり悪質なレトリック。

自意識ロック語りと商業化は、本来矛盾するもので、この相反する要素を何とかして乗り越えようとしているROを貶めるのは相当に不当。外野からいろんな難癖を付けてヤジを飛ばしているだけのような雰囲気に終始するのが悲しい。

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June 11, 2013

松尾理也『ルート66をゆく アメリカの「保守」を訪ねて』新潮新書

Route66たまには書評を。

筆者は産経新聞の外信部の記者。東海岸や西海岸の都市部ばかりを訪ねていると、米国は民主党が政権をとってしかるべきと思うのに、大統領選のたびに共和党と民主党は拮抗する。米国の保守層というのもが日本にいてはまるで想像できない。リーマンショックの渦中、デトロイトに現地の労組(UAW)へ取材したときも、そこにいたのは"Buy American"を声高に訴える“愛国派の民主党員”だったから。

本書は、長年にわたって保守系の地盤となっている大陸中西部の都市を訪ね、米国における文字通り“保守”の源流をたどるというもの。そのルートとして筆者が選んだのは、シカゴから大陸中西部を抜けてロサンゼルスに至る66号線。いわゆる“ハートランド”と呼ばれる地域だ。

「(米国においては、)リベラルの論理とちがって、保守の論理は日本ではほとんど知られていない…アメリカの真ん中当たりに住む保守的な人々がみな、陰謀に満ちた奇怪な人々などということはありえないのである。現地に行ってみよう。どんな人々が、どんなふうに暮らし、モノを考えているのか、見てみよう」(9-10)

アメリカの保守を構成するひとつの重要な要素として指摘されているのは、コミュニティと一体化された、保守系白人層の心をつかんでやまないアメリカナイズされたカジュアルなキリスト教文化。もうひとつは、文学で言えばスタインベック、音楽で言えばウディ・ガスリーのような、一見「労働者の代表」である存在が保守層に根強く浸透しているという文化的背景。

「ガスリーは共産党シンパだったのかもしれないが、同時に田舎町を旅しながら草の根の「ふつうの人々」の物語を飽くことなく紡ぎ続けた点で、『保守』を体現した人物でもあったのではないか…」(209)

単純に紋切りなイデオロギーの対立軸で分別できないところに米国の保守層の不思議さと、得体の知れなさがあるのは確か。この人種のるつぼの国で、そう簡単に保守の論理を見つけることはできないだろうが、その底知れない奥深さを実感させてくれる一冊。


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July 04, 2012

『夢よりも深い覚醒へ』岩波文庫・大澤真幸

Cimg1450正直言って自分の手には余るテーマだけれど、こういう時世だからこそあえてレビューを。3.11を受けて、原発のありかたの是非を根源的に問う哲学書。この問題設定をおこなう以前に答えは決まっている。かくも危険な存在であると分かっている原発をなぜに容認してしまうのか。

その答えは比較的簡単で、「原発はもともと相当に安全に造られているのだから、一切の原発の建設を諦めるというような極端に走らなくても、事故を起こさずに済むのではないか、と。…「われわれ」が極端に用心深くなって、原発を放棄してしまえば、「われわれ」だけが損をしてしまうのではないか、と。要するに、原発の建設を一切禁止するという極端な予防策は無意味ではないか、と。こうした思いが出てくれば、結局は、原発の建設に踏み切ることになる。」(55)

では中長期的な視点で脱原発を図ろうとする際に、「探求の主題」として挙げられるのは「どのような前提が受け入れられ、満たされたとき、こうした(脱原発への)理路に有無を言わせぬ説得力が宿るのか」(15)ということだ。

この問いに対する結論は第3章で明かされる。すなわち、「未来の他者との連帯」にこそ解決の鍵はあるという。その「未来の他者との連帯」をいかにして見いだすかというと、単なる子の代・孫の代という身近な近親者に対する“想像力”ではない。「現在のわれわれへの不安と救済への希望」だという。

「未来の他者は、ここに、現在にーー否定的な形でーー存在しているからである。たとえば、現在、われわれは、充足していると思っているとしよう。(中略)しかし、同時に、「現在のわれわれ」は、説明しがたい悲しみや憂鬱、言い換えれば、この閉塞から逃れたいという渇望をもっているだろう。 その悲しみや憂鬱、あるいは渇望こそが、未来の他社の現在への反響ーー未来の他社の方から初めて対自化できる心情ーーなのであり、もっと端的に言ってしまえば、未来の他社の現在における存在の仕方なのだ」(149)

この文面を見ると、「今感じる不安を解決するための行動こそが未来につながる」という、しごく簡単なことをわざわざ難しいレトリックを用いて説明しているように思えるが、カント〜ヘーゲル〜マルクス〜ウェーバー、そしてアメリカの自由主義という思想的な手続きを踏んだうえでのこうした結論なので、単なる言葉遊びではない。

4章・5章は、より具体的に変革を担う主体としての宗教と階級に焦点。いうまでもなくウェーバーとマルクスの再解釈にあるけれど、本書の主題を理解するには3章までで事足りる。

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August 20, 2011

『調査報道』2011年7・8月号(TBSテレビ)

Imgp7286『調査報道』はTBS本体が出している、「テレビ界の良心」とも言える隔月誌。

7・8月号の特集は「そのとき それから私たちは何を伝えたか〜東日本大震災と放送メディア」。震災から3カ月あまりを経て、テレビと災害報道のあり方を再検証するという内容。巻頭に武田徹、コラムに黒井千次、斎藤環、小熊英二、山田太一など、インタビューに小山薫堂といった学者・作家・ジャーナリストのジャンルを問わぬそうそうたる寄稿陣。

個々に論評すると長くなるのでひとつに絞ってコメントを。武田徹の「真に公正かつ公益的なジャーナリズムとは」。このタイトルそのものにちょっと口を挟みたくなる、というか「そのようなジャーナリズムは絶対に存在し得ない」というのが自分の意見だが、それを論じるとこの雑誌と関係ない話になるのでここでは措いておく。

武田は、「客観中立の報道への指向が、必ずしも十分な内実を伴ってこなかったことを報道関係者は心するべきだろう」と述べる(5)。

さらに武田は玉置明の主張に拠って、ニュースメディアで多用される「〜と言える」「〜とみられる」という表現について言及し、「記事は自動的に生成されるわけではないので、記事を書く主体はもちろん記者である。しかし「(記者である)私は〜とみる」と書いてしまうと、新聞倫理綱領の「ニュースの報道には記者個人の意見をさしはさんではならない」の文言に抵触する。(中略)つまり記者である「わたし」は同じように判断する多数(=「われわれ」)の代表としてそれを判断しているというスタイルを取る必要がある。そしてこの「われわれ」の主観的判断が集まって、客観性に漸近するという想定をしないと客観報道の枠組みの中で判断を下すことができない」(5)。

この主語が喪失した報道のもたらしたものは何かというと、「私見を述べようにも依って立つ主語がないのだ。しかし、その一方で「われわれ」の語は、表面上こそ消えているとはいえ隠然たる支配力を示す。「われわれ」の判断とは世間の感情に影響され、世の中の気分の風向きに報道が流されやすくなる」(6)。

こうした状況に対して、武田は「伝える主体の自覚」の必要性を訴える。震災報道の例でいえば、「問題や困難を抱えた当事者に話を聞き、一緒に解決策を模索する「ケアの倫理」」(7)が重要なのだという。「被災者をケアしようとする報道は、報道する記者自身や、報道そのものをもケアするのだ。そして実はそこにこそジャーナリズムのあるべき姿がみられるのではないか。特定個人との二人三脚で書かれ始めた記事は、社会の歪みとその解決法まで示せれば結果的に立派な公益的ジャーナリズムになる」(7-8)。

自分的には、記者が自身の立場や素性を明らかにした上で積極的なステートメントを発することは全く問題ないとは思っている。むしろ、媒体を盾に自身の意見を代弁させる感覚こそ疑うべきだろう。ただ、武田の言うような「当事者に寄り添うケアの報道」については、雇われ記者がそこまでの自覚をもち、身命を賭して当事者にコミットしていくのはあまりにも荷が重すぎるし、ビジネスの側面から見てもコストがかかりすぎて成立しにくいのでは、というのが率直な印象だ。

というのは、こうした内在的な観察と分析は「ジャーナリズム」よりも「アカデミズム」の領分であるからだ。「ケアの報道」的な手法は、コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」をはじめとして、社会学の分野で公害/環境問題や被差別部落などの研究において、「参与観察」「生活史法」としてすでに数多くの実績がありその手法も確立されている。

また、「ケアの報道」で気がかりなのは、取材する当人も取材される側も「被災者を食い物にしてメシのタネを稼いでいる」という負い目を背負わなければならないと言うことだ。アカデミズムにおいても同様の理屈が通るかも知れないが、その収入の多くを私企業からの広告にたよる報道機関と公的な教育/研究機関とではその「お金の出所」に由来する立ち位置に大きな隔たりがある。自由に動きやすいのは断然後者だろう。ならば、報道の立場としては、ケアの報道ならぬケアの研究を進めるアカデミシャンたちの業績や動向を広く知らしめる立場に徹した方がお互いのリスクも小さく、役割分担も明確にできる。…という発想は功利主義にすぎるだろうか。

また、当事者に寄り添うがゆえのシンパシーが、スポークスマンの代わりとして利用された場合の影響の大きさも計り知れない。武田がいみじくも指摘した「世間の感情に影響され、世の中の気分の風向きに報道が流されやすくなる」という現状は、そう簡単には覆りそうもないからだ。

本誌では他にも、「あの記事を今、読み直す」というアンソロジー企画で筑紫哲也と吉永春子との対談や、「あるある大事典」のねつ造を巡って外注ディレクターの実体験に根ざした是枝裕和による論評、そして金平茂樹による「メディア論の彼方へ」と題された原発報道への悔恨と問題提起を含んだ架空対談など、見どころは非常に多い。

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August 10, 2011

東洋経済新報社『Think!』38号 特集「ソーシャルメディアインパクト」

Dsc02568ちょっと政治寄りな『FACTA』と双璧をなす、(クオリティペーパーならぬ)クオリティマガジンの典型例。新宿西口のブックファーストで探したが雑誌コードがなくて書籍扱いだったので探すのに苦労した。かなり読み込んだので写真の表紙がめくれ上がってしまったのはご容赦を。

今回の特集名は「ソーシャルメディアインパクト」。なにを今さら、という感もあるが、そこはThink!、表紙に名を連ねる執筆陣・対談陣を見ても分かるように、一流どころを揃えて有無を言わせぬ説得力を持たせている。

見どころはほんとうに沢山あるので、あえてひとつだけに絞って書く。それは巻末近くの團紀彦(建築家)と波頭亮(コンサルタント)との対談。「日本を再設計する」というタイトルのもと、東日本大震災で起こった福島原発の問題を取り上げて、その被害が拡大した要因のひとつに「プロフェッショナル性の欠如」を指摘する。この対談、具体例から一般化(特殊から普遍)という往復の文脈がじつにスリリングで面白い。

改めて目からウロコだったのは次のくだり。いずれも波頭氏の発言。

「プロフェッショナルの側の問題としては、いくらクライアントとはいえ、言いなりになっていては、自分にとっても、またクライアントにとってもいい仕事にならないことのほうが多い」(139)

「クライアントに対してプロフェッショナルでなければ提供できないようなレベルの高い仕事を提供できなければ、どんどんレベルの低い作業仕事を請け負わされてしまうことになる。そして、そうした流れの行き着く先は、その職業自体の喪失です。だからこそ、どんな領域のプロフェッショナルであれ、目先のお金をもらうためだけに仕事をするようなことをしてはいけないのです」(139)

日々の業務では、代理店からのプレッシャーや楽な方に流されてしまいそうになる自分がいて、ついつい妥協してしまいそうになるが、やはり信念を貫き通すというのは大切。及ばずながらプロフェッショナルな仕事を目指す身としては、波頭氏の的確すぎる指摘は分かっちゃいることだけど耳が痛い。陳腐な感想だけど、とにかく再発見の多い内容だった。

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July 25, 2011

NHK出版『ダメ情報の見分けかた』(2010;荻上チキ、飯田泰之、鈴木謙介)

Imgp7058原発の安全性やら、「米のとぎ汁乳酸菌」やら、某ロックフェスへのアイドル出演拒否騒動など、なにかと事の真偽のほども分からぬままに世間を賑わす「うさんくさい情報」。本書は昨年出たものだが、なかなかタイムリーでセンセーショナルなタイトル。やはり見出しは大事。

とはいえ本書で述べられているのは全くむずかしい話ではなく、ベーシックなこと。

第1章では、人びとがデマ情報を信じてしまうのは「有名な人が言っているかどうか(有名性)」、「親密な人が言っているかどうか(親密性)」、「多数の人が言っているかどうか(複数性)」、そして「権威あるメディアが言っているかどうか(権威性)」に頼っているからと説明する。(68)。「有名性や親密性を頼りにして、検証を行わないことが流言やデマを鵜呑みにしてしまう土壌にさえなってしまいます」(69)。

そこで社会心理学者のハードレイ・キャントリルを引用して、「流言の内容的な矛盾や妥当性を判断する」「内在的チェック」と、「参考となる資料や証拠を探そうとする」「外在的チェック」の重要性を指摘する(68)。

分かりやすく言えば、内在的チェックは自身の経験や知識に照らしてその話題が真実かどうかを判断すること、また外在的チェックはその話題を裏付ける(またはその話題の信憑性を補完・保証する)情報を確かめる、ということになるだろうか。

第2章では、もうひとつの「ダメ情報」について指摘する。「様々な話に適用出来る、それどころか他の何にでもあてはまると感じたならば、そのな話には内容がない、書き手・伝え手にも特に言うことはないが〆切が近いのでとりあえず発信してみた情報だと考えておけばいい」(107)。こんなことは、ライター/記者/編集者であれば当たり前に持っておくべきモラルだけれど…。

第3章は欧米圏のリベラリズムの話題にシフトして、延々とロールズとサンデルとの違いを講釈。自由と平等の考え方如何で根底的に情報のとらえ方が変わるというのは分かるが、思想レベルの話は前章のケーススタディとあまりに隔絶しているので、正直どういうつながりがあるのかよく分からなかった。リベラリズムの話は1章どころか1冊でも足りないほどの話題なのだから、無理して本書に盛り込む必要はなかったように思う。

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July 21, 2011

『DIME』2011年第15号

Imgp7195いっしょに仕事をしているe燃費が紹介されているというので『DIME』を買って読んだ。紹介ページにたどり着くまでに、そのボリュームと情報の密度に圧倒された。Web通販の四つ巴戦争から、PontaやTSUTAYAなどのモバイルポイントの勢力図、さらに無数のガジェット紹介(おそらくその大半はタイアップ)まで、特集と企画をうまく織り交ぜている。制作にはそうとうな人が関わっているのは当然。

うるさいくらいの活字・図版・写真の嵐。だけどレイアウトも見やすさも練られているから、読みにくい、ということはない。さすがに数十年におよぶ雑誌というフォーマットの強さ。この情報量で400円ならむしろ安いと言い切れる。

Webの業界にいると、いかに低コスト(少人数化・省力化)を実現して多数に見られるような工夫をするか、ということばかり考えがちで、多少なりとも成長市場であるWeb媒体という環境におもねってしまっていることに気づく。定型で流し込むことだけじゃなくて、もうちょっとクリエイティビティを出さなきゃね。

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June 30, 2011

三田誠広『マルクスの逆襲』集英社新書(2009)

Imgp9246なんだか読み進めていくうちに文学者らしいナイーブさが表に出すぎているなあ、という印象と、いまの”実感”を文章にさせたらこの人の右に出る人はいないなあ、と思ったりも。『僕って何』、好きだったんだけどなあ。

「高校の研究会の仲間達が中心になって、わたしたちは大学生のデモに参加することになった。両側を大学生に守られた、ひよわな感じのでもであったが、御堂筋をいっぱいに拡がって行進するフランスデモも体験した。多いときはわたしたちの高校から50人くらいの生徒がデモに参加した。それまでごくふつうのガリ勉タイプだった生徒までデモに参加しているのを見て、わたしはいささか感動した」(94-95)。

「行動すること」そのものがあたかも正しいことをしているかのようにも受け取れるこのくだりは、全共闘時代を懐かしんでいるかのよう。

「日本は原則的に民主主義の国家なのだから、投票で、大貧民を救済する政党に一票を投じればいいのだ」(182)といいながら、階級による革命は否定するあたりが三田のアンビバレンツな立場を露わにしている。マルクスのテーゼは周囲を代えながら自らも変えていくことではなかったのか。

「人間は金銭だけでいきているわけではない。高度経済成長の時代なら、賃上げの要求だけで押し切れたかもしれないが、低成長の時代には、人間の行き方も、別のスタイルにシフトしていかなければならない。そこで重要になるのは、家族や親族、地域の共同体といったものだ」(183)

「郷土にたいする親しみというものは、人間が生きていく上で、生きがいや価値観の基礎を支えることになる。その郷土の延長線上に、日本という国がある。家族を大切にし、郷土を愛し、地方経済を立て直していくことが、国を発展させることにもつながっていく」(187)。三田の視点をあえてラベリングするなら、「国民主義的共産主義」ということになるのだろう。日本という”幻想的な”国民国家を想定して、家族そして地域、さらには国家を同心円的に配置する。戦前の皇国思想と異なるのはその頂点に天皇が存在していないという点だけだ(本書では言及していないだけで三田の想定には存在するのかも知れないが)。

こうした三田批判の分析はいかにも紋切り型と思われるかも知れないが、その立場が大きな矛盾を抱えていることは疑いはない。「いまの若者は消費にだけ目が向いている。生産することの喜びを教えなければならない」(217)。どれだけ就職活動にあくせくし、なかには絶望する学生が大勢いる閉塞したこの国で、文学者の立場でこんな楽天的な具申を平気でできる感覚を尊敬してしまう。

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June 20, 2011

『WIRED』(Vol.1)を買いました

Imgp7037ちまたで評判の『WIRED』Vol.1を買ってみた。形態としては『GQ JAPAN』の増刊。ページを開くと、純広告にアウディ、アルファにボルボといった輸入車ブランドが名を連ね、さらにデロンギやらダイソンやBell&Rossやら、そしてGoogle(!)が並ぶ。もっともご祝儀出広も少なくないようだけど。

内容はかなりラディカルで、原発問題に端を発する“セーフティ/セキュリティ”が大きなテーマ。しかも誌面のデザインがやたら凝っていて、アート誌を読んでいるかのようだ。

こういうブランドとデザインとオピニオンとアイロニーの接合は『NAVI』とか新潮の『03 ゼロサン TOKYO Calling』とか『Studio Voice』とか、90年代にかけて良くあった形態のように思うが、趣向が多様化して雑誌の専門誌化が進んでいる2010年代にはすごく新鮮。また問題が身近だけに迫ってくるインパクトも大きい。

一方で、この内容からして読み手はかなりセグメントされてしまっている感もあり、商売的にどんな状況かも気になるところ。またちょっと“薄すぎる”のも残念なところ。今年の秋とされている次回の発刊に期待。。

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