カテゴリー「文化・芸術」の記事

May 06, 2012

WALL・E

昨日NHKでやっていたピクサーの「WALL・E」。

怠惰な人間と、その人間が生み出したロボットが鬼子となって復讐し、最終的には人間が悔い改めて行動を起こして救われるという皮肉混じりのストーリーはどっかで見た覚えがあるけど、機械モノにラブストーリーを絡めて感動を誘う当たりが、いかにもアメリカ映画でおもしろい。

Appleユーザーにはクスッとくる演出もたくさん。

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November 03, 2010

マザーウォーター

監督は多摩美出身の29歳、松本佳奈。初監督作品。

キャストは小林聡美、もたいまさこ、市川実日子、光石研、加瀬亮そして永山絢人(瑛太の弟さん。そっくり)など。一部は「かもめ食堂」とか「めがね」とか「プール」とかでお馴染みなメンバーでもある。本作の内実はというと、ひとことで言えば“グルメ映画”。とうふ、サンドイッチ、ウイスキーの水割り、グラタン…登場人物はほとんど常に、必ず何かをおいしそうに食べて、飲んでいる。

物語自体はじつに淡々と進んでいって、飄々としている小林聡美ともたいまさこのキャラクターが印象的。コーヒー店の店主をしている小泉今日子はその枯れ具合が微妙に色っぽい。加瀬亮は、小林に好意を持ちつつも常に一定の距離を取っている。市川は常に問いかけをしている。永山絢人も、もたいまさこととじゃれ合うときもあったが、途中で物語から姿を消した。これらの登場人物がどっかで結びつくのか…とおもいきや、そういう物語ではなく、どの人物も互いの距離を微妙に保ちながら、“この街”の心地よさに惹かれてつつ、交錯していくという話。

よくわからないといえば分からない作品だけれども、それぞれの登場人物を結びつけているのが、「ぽぷら」という名の子ども。2歳にも満たないらしい幼児だけれども、映像の中ではけっして泣くことはなく、主要な登場人物とかならずふれ合っている。光石研がいっていた、「この子はみんなの子どもだと思っているかも知れない」というセリフがこの作品を象徴しているのかも。伏線のようであって伏線ではない、でも微妙に関連している、みたいな要素を紐解きながら見ていくとけっこう楽しめそうな作品。

どうにもあいまいな解説ですいません。ただ、監督が描こうとしてた世界観みたいなものには、共感できるところが多かったように感じる。

http://www.motherwater-movie.com/

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August 18, 2010

文学フリマ申し込み

12月開催の文学フリマの申し込みがスタート。1年半前の雪辱を果たすべく、書きたいネタを山ほどためこんではいるけれど、それをカタチにする時間がなくて。…言い訳はどうあれ、カタチにしなくては何もしていないのと一緒だ。

自分の場合、ひたすらボーッと1人で自由に考え込める時間がないとやっぱり創作ってできない。好きなことを書いて良いからこそ、読んで面白いモノを生みだそうと熟考してしまうから。とりあえず申し込むが、36ページはおろか20ページでも全編書き下ろしはすでに困難な予感。今できる次善の策を考えるとするか。

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July 19, 2010

『パリ20区、僕たちのクラス』ローラン・カンテ監督、フランソワ・ベゴドー原作

岩波ホールにて。9割以上の入りで大盛況。原作は未読。

Imgp03721生徒たちと笑顔で写真に収まる教師の写真が印象的なフライヤー。だが、日本の学園ドラマにありがちな予定調和のエンディングを想像すると、その期待は裏切られるはず。

物語において徹頭徹尾、主人公の国語教師と生徒たちの距離は縮まることはない。いや、物語の過程で縮まりそうな契機はあるが、とあるきっかけで再び離れてしまう。

自分が受け持つ生徒の退学を防ごうと思いつつ弁護するも、周囲の教師たちの意見には抗えず、結果的には退学を見届けてしまう。そして、ひどく悪態をつく女生徒を思わず“娼婦のようだ”と罵ってしまう。かといって、ひどく深刻に思い悩むシーンはない。ただボーッとタバコを捨て物思いにふける姿が描かれるのみ。どこかしら、教師と生徒、そしてカメラと教師との間には常に一定の距離が保たれていて、容易に内面に近づこうとはしない。

極めつけは、最後の場面。9か月の学期を終え、1人の生徒にある告白をされる。「自分は何一つ学んでいない」と。教師にとっては、まさに今までの努力は何だったのかと、自問を強いられる発言で物語は終わる。

なんというか、距離感が独特のドラマ。バッドエンドでもはっぴいえんどでもない、見る者にもやもやした何かを焼き付けて終わらせる映画だった。最初から最後まで、音楽が一切流れないことも印象的な作品。

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July 01, 2010

ソウル・パワー

Imgp62991配給アップリンク、新宿三丁目のケイズシネマ。見終わったときの第一印象、それは「究極的に濃ゆい」。1974年にザイール(コンゴ)のキンシャサで開催されたミュージックフェスティバル“ザイール '74”を取り上げたドキュメントムービー。ジェームズ・ブラウン、BBキングら、脂がノリに乗っていたソウル/R&Bシンガーのアブラぎりようといったら、表現のしようもない。

前半は開催までのドタバタ劇、後半はライブアクトを中心にした構成。アメリカで育った彼らは、ザイールの国語であるフランス語は当然理解できない。“黒人”であること、その一点をよりどころに、アフリカの地を“故郷”と呼び、その地でライブすることの感動と興奮と郷愁を伝える。彼ら/彼女らの歌はピュアな恋愛詞ばかりなのに、その語るところは非常に政治的。モハメド・アリのアジ演説は文字通り役者。マルコムXやマーティン・ルーサー・キングの後継を自らもって任じているかのようだ。

開催ギリギリまで設営でもめる気むずかしそうな白人の出資者とは対照的な、地元民の輝くような笑顔。マヌ・ディバンゴが街の子どもらとにサックスを披露して街を練り歩く光景はまさにブレーメンのそれで愉快。そして終盤のJBの強烈なパフォーマンスは圧巻。モンチッチのようなコミカルな衣装、すでに40歳を過ぎていながら驚異的なバネで繰り出す変態ダンス、耳をつんざく高音シャウト。まさにカリスマ。

ひとつ、不満を言わせてもらうなら、後半ではオーディエンス(一般大衆)の表情があまり伺えなかったこと。肌の色こそ同じながら、異国からやってきた言葉もわからないアーティストたち。白人音楽の影響のもとで大きく変貌を遂げた音楽性。彼ら/彼女らはこのイベントをどう見ていたのだろう。歓声は明らかにアフレコで不自然だったのも残念。

ともあれ、ソウルのパワーは十分に伝わってきた。終演後、何度もお辞儀を繰り返す汗だくJBの姿が頭から離れないんだ。

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May 30, 2010

『聖家族〜大和路』

久しぶりの映画評。秋原正俊監督の『聖家族〜大和路』を新宿三丁目のケイズシネマで見た。原作は堀辰雄。開高健や武田泰淳と並んで、彼の飄々とした世界観はものすごく好きだった。

本当は安藤モモ子の『カケラ』が目当てだったが、レイトショーということで平日でも見られそうだったので、こちらを優先することに。

この映画、某映画レビューサイトでは5点満点中1点台の酷評ぶり。キャスト的にも、シチュエーション的にも悪くなさそうなのに、なんでこんなに評点が低いのだろう。それを確かめるため、ということもあった。

主人公役の片桐仁のたたずまいは、画家としての雰囲気があって悪くない。が、喋らせると大根。ときおり放つ文学的修辞がちょっと白々しい。

画家として偉大な師を持つ弟子の苦悩は、たしかに伝わってくる。けれども、ちっとも絵が描けないのに女だけは寄ってくるという不思議は何だ。途中で出てきた女漫画家の山下、師の忘れ形見でもある絹子、突然現れるダンサー役の神崎。特に山下は、中途半端で登場してくる意味が希薄。神崎はデートの約束をすっぽぬかして途中で姿を消す。で、残った絹子と結ばれるかというと、そういう雰囲気を漂わせるだけで、いつのまにかエンディング。

75分という短い尺にいろんなドラマを詰めこもうとした結果、物語として消化不良に陥ってしまった印象がある。映画館の回転率を考慮した結果の尺設定なのかも知れないが、見る人に納得させるだけの内容として見せるには、少なくとも前後譚をしっかり説明するべき。そう考えると90分以上の尺は必要だろう。これでは堀辰雄も浮かばれない。演出やカメラワークなどほかにもいろいろ突っ込みどころはたくさんあるけれど、これくらいにしておこう。

監督である秋原氏の日本文学への傾倒と、伝統的な日本文化にたいする憧憬の念は十分に理解できた。その熱意をもっと洗練させたカタチで映像に昇華させてほしい。作品のテイストは全く別だがこの前見た河瀬直美との力量の差が出すぎてて、ちょっといたたまれなくなった。

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October 06, 2009

空気人形

Dvc000021シネマライズで是枝裕和の『空気人形』を見る。

原作は業田良家のマンガ。“人形がココロを持つ”なーんていうと、なんて安っぽいファンタジーなのだろうと思うが、その人形はオトコどもにとっての性欲処理の道具であるというおどろおどろしい背景と、周囲の人物を巻き込む人形であるがゆえの悲劇が強烈なインパクトを与えてくれる。一部始終暗い内容なわけではなくて、途中までは笑い声がでるほどの愉快なシーンもあるけれど、人形師のオダギリジョーが妙に前向きに人形を諭すシーンをきっかけに、一気に物語は沈んだトーンになっていく。

人形役のペ・ドゥナは文字通り体当たりの演技。それにしても、『あさま山荘への道程』での坂口役といい、今回のレンタルビデオ屋店員役といい、純朴だけど陰りのある青年役という役柄にARATAほどハマる俳優も少ないだろう。

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February 06, 2009

文学フリマに出展します

5月10日に開催される文学フリマに出展します。前回申し込んだところ抽選に落ちてしまったが、落ちた人には「優先申し込みID」なるものが配られ、今回はほぼ確実に出展できるとのこと。気が向いたらお越しください。

そんなわけでこつこつと文章書いている。たいした作品はできそうにはないけれど、仕事以外でひさびさにまともな文章を書ける機会ができて嬉しい。間に合うようにがんばらなくちゃー。

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November 23, 2008

映画4本

多摩シネマフォーラムの映画祭で、4本の映画を鑑賞。

河瀬直美のドキュメント「につつまれて」「きゃからばぁ」「垂乳女(たらちめ)」、あと若松孝二監督の「実録・連合赤軍」。

河瀬直美の作品については、敢えていじわるな言葉を使わせてもらえば、自意識過剰もここまで度を過ぎると心地よい。「につつまれて」は一度も会ったことのない実の父の消息を追う物語。“父を捜す自分”に焦点が当てられていて、執拗なほどに河瀬本人のポートレートが続く。

「きゃからばぁ」は「につつまれて」の続編。実父の死を聞きながら、「墓参りにも行く気はない」と突き放し、「わたしが強いからあなたを生んだ」と言い放つ実母。河瀬は、自らの数奇な出生を、そのやり場のない気持ちを、納得させるために刺青師と出会う。そして自傷(=刺青)する。「作品を生み出す行為はひたすらに孤独であって、そこには愛も友情も不要である」と。河瀬は、刺青を入れ、全裸で草むらを走る。

「垂乳女」は生と死の物語。老いゆく祖母、そして自らのカラダに新しく宿る命。祖母の亡くなる瞬間を、そして自らの出産シーン(赤ん坊が出てくるその瞬間すらも)をすべて包み隠さず映像で見せる。徹底したリアリズムというか、究極の事実追求型映画といえる。記憶にすると曖昧になる。写真では断片化される。だが、(撮影者の視点という留保が付くにせよ)映像はありのままをリアルに描く。自分たちが目を背けてきたものを、河瀬は自らのカラダをもって突きつけようとする。そのパワーにひたすら圧倒された。じっさい、3作品のなかでいちばんおもしろかったのはこの作品。


「実録・連合赤軍」は、190分の長編。思うところはいろいろあるので次回。

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November 09, 2008

文学フリマ

Imgp9121秋葉原で開催されていた文学フリマへ。今日も寒い。じつは今回出展しようと応募したのだが、抽選に外れてしまった。そのかわり次回の優先出展権なるものを得たので、出展の参考のために見に行った。

人はたくさんいたのに会場の通路はやたらと狭く、押し合いへし合い。でも、低い天井と人口密集度が大学の学生会館みたいで懐かしい。根暗っぽいオトコがやたら多いあたりも。前日のデザインフェスタと対照的にアンダーグラウンドな雰囲気が気に入った。ただ、小説や漫画評や映画評、それと純哲学系が比較的多くて、音楽系はあまり多くなかったような。逆に考えればそこで個性を発揮できる余地はもしかしたらあるかもしれない。

なかにはプロや出版社の出展もあったが、こちらは素人のレベルにプロが合わせている。すべて机ひとつイスひとつ。音楽を流したりすることもない。なかにはひとりぽつんと座って作品だけ置いて、ひたすら瞑想しているような人もいる。

みんな、いろんなカタチで努力をしている。自分も見習わなくちゃ。次の文学フリマは5月。しっかり準備をして、後悔のないように執筆作業に勤しみたい。半年も先ですが、気が向いたらぜひいらしてください。

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